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2014年の滝本竜彦論
「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」から「illuminated-novel.com」まで
(第一作目のネガティブハッピー・チェーンソーエッヂと、現在のサイトilluminated-novel.comの二つに関する評論です。他の作品については語っていません。)



ぼくは、滝本竜彦が好きだ。
彼の書く小説が好きだ。
人生で、一番衝撃を受けたのは、「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」だった。
どれくらい自分に影響を与えたのかは、衝撃が大きすぎて自分でも計測不可能だ。

前にどこかのインタビューで書かれていたのを読んだと思うのだけど、「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」は「ニヒリズム」がテーマだった、と書いてあった。
作中の言葉でいえば、それは、能登や下宿のお姉さんの言葉であり、わかりやすい言葉に言いかえると、「諸行無常」、つまり、すべてのものに終わりがあり、楽しいこともいつか終わってしまう、ということだ。
でも、そんなの嫌だよね。嫌だから、この作品に出てくる登場人物も、いろいろな方法で、ニヒリズムを克服しようとする。

そのニヒリズムという問題に対する解答は、作中で、主に3つ、述べられているように思う。
厳密にいえば、もっと多いかもしれない。なぜなら、この作品の中で、ニヒリズムという問題をぼんやりとでも認識しているのは、主人公(山本陽介)、絵理ちゃん(ヒロイン)、能登(登場したときすでに死んでいる超かっこいい男)、渡辺(悪友)、下宿のお姉さん……がいると思うからだ。
それぞれの人がそれぞれの解答をたたき出しているとは思うが、主に3つ、主人公と能登と渡辺の、ニヒリズムに対する姿勢、というものがわかりやすいと思う。

1.自殺する――あるいは自殺的な生き方をする、命をかけて生きる(能登)
2.一人で打ち込めるものを見つける(渡辺)
3.中途半端に生きる、あきらめて生きる(山本)

1については、正直、正確な描写は無理だと思う。作中でも、能登がどんな生き方をしていたのかは、微に入り細に穿って書かれているわけではないからだ。
でも、十分具体的に書いてあるとは思うし、それは各人が読んでもらえればと思うが、「命をかけて、妥協をせずに、周りの意見よりも自分の良心に従って」生きていた。
そうはいえると思う。
2については、みんなで何かやっても仲間が去って行ったりするもんだから、一人で自分が進みたい道を行く、というやり方だと思う。
たとえば、音楽が好きなら、音楽をやればいい、でもそれはみんなとやることを目的とするんじゃなくて、一人でもやる覚悟をもってやる、ということだと思うのだ。
みんなと一緒に何かやるのが悪いというわけじゃない、やってもいいけど、それは本質的なことじゃなくて、本質的には一人で打ち込んで、一人でも大勢でもどっちでもいいから、打ち込めることをやる、ということ。これが、渡辺のやり方――だと、少なくともぼくは思っている。
3については、主人公のやり方だが、能登にも渡辺にもなれなかった人間が、でもあきらめることはできた人間が、とったやり方だ。「まあ、いろいろしょうがないし、中途半端だけど、生きてるってだけで、まあ、オールオッケーじゃないかな……」という、書くと情けなく見えるかもしれないが、それでもかっこいいやり方だ。
記憶が正しければ、どこかの動画で滝本さんが「あきらめるとか大人になるとかが、かっこわるいっていう風潮があるけど、本当はかっこいいんだ、ということを言いたかった」みたいなことを言っていた気がする。
ぼくは、自分の人生の中で、「あきらめろ」とか「大人になれ」みたいなことをよく聞いた気がするので(気のせいかもしれない)、むしろ「あきらめない」とか「大人にならない」方がかっこわるいとされる風潮があるように感じているが、ともかくこの主人公がかっこいいことはこの本を読めばわかる。

おおまかに、ニヒリズムに対する三つの克服法があるわけだが、ヒロインの絵理ちゃんは特別だ。
絵理ちゃんは、ニヒリズムに対して、特殊な対処をしているというか、彼女はニヒリズムに対して「チェーンソー男」を生み出す、という対処、をした。
それは、自分の中にある悪を外界に投影する、ということだった、のだが、これはニヒリズムに対する対処というか反応ではあるが、解決策、というわけではない、かもしれない。
自分の中にある悪を外部に投射する、そしてそれと戦う、というのは、まあひとつのニヒリズムに対する生き方であると思うが、それを解決策と呼んでいいのかわからない。
なぜなら、チェーンソー男は最後に消え去るのだし、消え去るべきものとして書かれているからだ。(だから、むしろ解決策というより過渡期の現象と呼ぶべきか?)
内部の問題を終わらせることで、外部世界に影響が出て、外部の悪も消え去る、という理論は、最近の小説のみならず、このころからすでに存在していた(角川ノベルアクトの1巻目か3巻目のインタビューでそう言っていたはず)のだが、そうすると、これは4番目の解答、「自分の心を変えることで、外界を変える、奇跡を起こす」ということになるんじゃないだろうか。
だけど、この自分の心がどう変わって、外界が変わったのか、ということは、この話の中で、特に深く語られるわけではない―――自分なりの解釈では、主人公の「愛」によって救われたんじゃないか、と思ってはいるのだけれど、この解釈に自信がそんなにあるわけではない。
しかし、この、「自分の心を変えることで、外界を変える、奇跡を起こす」という4番目の解決法こそが、現在滝本さんが書いている小説にもつながっている。
ちなみに、ぼくがここで、「チェーンソー男が心の中の悪の外部への投影」と言っているのは、ネット上の滝本さんの言葉による裏付けもある。
たとえば、滝本さんのサイトのこのエントリ、「悩ましい人に与える薬」2014年9月18日(http://illuminated-novel.com/?p=113)参照。
チェーンソー男は、日本ひきこもり協会は、心の中にある悪が外部に投影されたものである。
それゆえに、心の中を変えることで、外部に投影されているものは姿を変える。


さて、ともかく。
「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」で思ったのは、自分が悩んでいたこと、悩んでいたけど言葉にならなかったことを、すっぱりとあっさりとはっきりと言葉にしてくれたということで、それが一番の衝撃だった。
自分の悩みが、中途半端にわかっていて、なんだかモヤモヤするなあと思っていたのが、「ああ、これだ、これが問題だったんだよ」と言葉でとらえることができた、というのが、この本を読んで一番大きかった収穫、というか衝撃だ。次に、小説は、こういう思想や考えを書いてもいいんだ、ただ面白いだけじゃなくてこういうことも書いていいんだ、と思えたのも大きい。
でも、この本を読んで、ぼくはさらに悩んでしまうことになる。
楽しいことは終わるかもしれないが、終わりたくなんてなかった。だが、どうも能登も渡辺も山本も、諸行無常は仕方ないから別の方向で攻める、みたいなことをやっているような感じで、どうにも納得がいかなかった。
ぼくは、楽しいこと、幸せなことが終わってほしくないのであり、つまり永遠の幸せが欲しいのである。
しかし、それを実現するには、ある種、宗教的、霊的(スピリチュアル的)な方向性しかないのではないのか?
ある種、現世的・俗世的なやり方で太刀打ちするには、諸行無常はあまりにも冷厳とそびえたつ「世界の掟」に思えていたし、そういう「世界の掟」を乗り越えるには、ある種、次元を超えるというか、その「世界の掟」の下でどうこうするんじゃなくて、その「世界の掟」自体を変革する方向性、「世界の掟」の上に出なければいけないと感じていた。
と思っていたところに、新しく滝本さんがネット上で文章を発表しだして(http://illuminated-novel.com/)、どうも似たような結論に達しているような気がして、これはもうシンクロニシティを感じないわけにはいかない。


ニヒリズムの克服には、ある種のスピリチュアリティが必要なのではないか、とぼくは感じている。
スピリチュアリティという言い方があいまいすぎるなら、「現実を超える力」、「超能力」、「奇跡」、「なにかふつうではないもの」、「常識を超えるもの」、「完全に違った視点からの行動」などなど、別の言い方もあるが、そもそも「これ」に明確な名前をつけることができるのか?とも思う。
つまり、名前をつけるというのは、言語化するということであるから、言語化できないものに対してはそもそも名前をつけようがなく、スピリチュアリティは直接的には言語化できないと考えるからだ。
だから、現在、ウェブサイト「Illuminated Novel」で書かれていることについて、ぼくは明瞭に語る言葉を持ち合わせていないので(少なくとも今は)、実際に読んでもらうのが一番いいと思うけれど、ひとつ言えることがあるとすれば、それらの小説で書かれていることは自分の心を変革するということであり、それによって外界も良い方向へ変えるということであり、しかも可逆的変化(また元に戻る可能性のある変化)ではなく、不可逆的変化(元には戻らない永続的な変化)を起こすということだろう。
すなわち、不可逆的な、よい変化の可能性。
もしかしたら、よいとかわるいとかの二元論になるのは、誤解を招く言い方なのかもしれないけれど。高次への変化、といったほうが適切かとも思うが、それはそれで高次・低次の二元論になってしまいそうな気もする。
ともかく、滝本さんの今、書いているものは、ニヒリズムをスピリチュアリティによって克服する取り組みであると思うのだけど―――。
それは、絵理ちゃんの身に起こったことであり、ぼくが取り組んでいることでもあり、滝本さんが今書いている作品群は、なにかぼくの力になってくれそうだ、という感じがするのだ。


いちおう、うまく言葉にできないなりに、「Illuminated Novel」に掲載されている小説について、少しだけ書いてみる。

「邪神とわたし ファイナルステージ」(http://illuminated-novel.com/?p=307)
 これはもう駄目なんじゃないかな?という状況も、視点や価値観を変えれば、実はポジティヴにとらえることができる――という解釈をしているが、もっと深いことを書いている気もするのだ。深いことはうまく言葉にできないから、浅い範囲のことについて語る。ちなみに、ぼくがかなりお気に入りの話。
 邪神にとりつかれた少女が、好きな相手を殺してしまうという呪いにかけられたのだけど、それを打ち破る、克服する話だ。
 だれかを好きになるということは、その誰かから何かを奪いたくなるということだから、好きになる人ができないというのはそんなに悪い話じゃない、という視点。
 これは、恋に関しては確かにその通りかなと思う。ユリイカの安倍吉俊特集号で、滝本さんが、「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」と言っていたところと重なるかもしれない。
「外にある何かを見て、自分の中の欠乏に気づき、外にある何かを求めたくなることは少なくなり、また、もし外にある何かを見て、自分の中に何か欠けているものがあると気づいたなら、それを即座に愛で満たすことができるようになったからだ。そして、そのようにして自分を満たし、満ちた状態で外を見た時、どのような人々も、私と同じ仲間であると感じられるようになったからだ。」という境地に立った主人公は、奪う・奪われるという関係から、与える・与えられるという関係に愛をシフトさせ、それによって邪神の呪いを克服する。そして、最終的には邪神すらも愛で満たす。最高のハッピーエンドであり、全体としても調和のとれた作品だと思う。

「脱獄の寓話」(http://illuminated-novel.com/?p=19)
 これは、一番最初に読んだ話で、これは(ぼくの)人生の寓話であるような気もして、それは錯覚なのかもしれないが、しかし訴えかけてくるものがある。
 主人公の、疑心暗鬼になって、自由におびえるところが、わかる、共感する。
 しかし、最後の二行、「壁向こうからの声の持ち主は、気長に男をサポートするつもりのようである。男はまた少し安心感を深め、無心に壁掘り道具を回し続ける。」
 これが最高に美しく優しい〆で、ぼくはたまらなくこの短編が好きである。

「螺旋のディセンディング」(http://illuminated-novel.com/?p=291)
 これについては、今のところ、唯一、読んで「怖い」というか少しネガティヴな感情を誘発した作品。最初はバッドエンドだと思った。
 これだけ毛色が違うようにも感じたので、滝本さんに感想を送ったら、返事がもらえたので、それについて滝本さんの話も交えて、書いてみる。
 滝本さん自身も、「あの小説がなんなのかよくわかっておりません」といいつつも、「作者としては、それほどバッドエンド的な、悲惨な話とは感じられず、作中の双子もそんなにひどい目には合わないのではないか」とのことである。
 この話は、「邪悪な村から逃げるため、村から脱出できる『秘密の書』を探しに、双子が永遠に暗い螺旋の中を降りて行くのだが、暗闇に終わりは見えず、しかも最後に手に取った本の名前が『Bw553』であり、そして、これは、今読者である自分が読んでいる文書と同じ」であるから、二人は完全に書物の中に閉じ込められて永遠の地獄をさまようという風に、最初ぼくは思ってしまった。この短編小説の中で、世界が完全に閉じて、双子は永遠に螺旋階段を降り続けるのではないかと思ったのだ。
 しかし、滝本さんの話によれば、「最後、双子の弟が手にする本、あれが「すべてを超えることができる秘密の書」なのではないか」、つまりその秘密の書こそが『Bw553』であり、螺旋階段を降りる足を止め、本を開くことで、自分たちのことが本にすでに文字として書かれていることがわかり、「実は自分とは、書かれた文字ではなく、それを見ている透明な認識者であるというような、一種の悟り意識を得る」ことで、「弟は螺旋の下降運動を終え、村に囚われているという本の中のストーリーをも楽々と超えることができるようになり、結果として姉およびその他諸々も助か」る、ということらしいのだ。
 つまり、ぼくは、弟たちの話が、インターネット上で公開されている小説と同じであるから、インターネットの中で(つまり小説世界の中で)、円環は閉じているように感じていた。
 だから、ぼくが読んでいる「螺旋のディセンディング」の中に、永遠に弟たちは閉じ込められていると感じていたのだが、そうではなく、弟たちは手にした本『Bw553』を読むことにより、「螺旋のディセンディング」を読み、自分たちの状況を一種のお話として認識する。そのうえで、その認識をもった自分こそが真実であると気付くのだ。つまりそれは、この本を今まさに読んでいるぼくたちと同じ視点・次元に立つということになる。そして、ぼくたちの次元では、「螺旋のディセンディング」はお話なのだから、弟たちは「本の中のストーリーをも楽々と超えることができるようになり」、結果として、みんな助かる、ということになるのだろう。
 滝本さんは「しかしいずれにせよ、それをすることによって、いつでも、どんな状態でも、ストーリーの外にでることが出来る、しかしストーリーの外に出ない限りは、ストーリーは惰性で、設定通りに続いていく、というような話なのだと思いました。」と書いていたが、この文章こそが、この作品のキモなのだと思う。螺旋階段を下りている自分を自分と錯覚している限り、螺旋階段を降り続け暗闇の中にあるが、螺旋階段を下りている自分が自分ではなく、その自分を認識している自分が本当の自分であり、その瞬間に、螺旋階段や暗闇の次元から飛び出すことができる――ということだと思う。
 あえて思い切ったことを言ってしまうと、これはメタファーであり、現実に没入するのではなく、現実を(客観的に、もっと正確には瞑想的に)認識することで、いろいろと自由になれる、救われる、という話なんじゃないだろうか。
 瞑想では、何も考えない、あるいは、なにかに集中する(たとえばお腹の中に仮想的に作り出した綺麗なクリスタル、あるいはポジティヴな想念、あるいは数字のカウント)といったことを行う。そこであらわれてくるのは、認識者としての「自分」だ。
 いつもは自分といったものの中に自分が没入しているのが、瞑想することによって、自分を客観視している、自分を観察している、自分を認識している「自分」があらわれてきて、それこそが「自分」なのだ、という感覚を得ることが(少しは)できる。ぼくは自分で本を読んで瞑想したことがある。十分間くらい、瞑想の状態を保てればいい方の、あまり訓練されていない人間だが、それでも、これくらいの感覚は得ることができる。ぜひ、興味をもったらあなたもお試しあれ。
 ただ、この作品が一番自分の心に収まりが悪いことは確かで、しかし、エッセイ「ミッションステートメント」にあるように、「そんな物語が、このホームページには掲載されている。もしあなたがお望みであれば、気に入った物語をどれでも手に取って読むことで、それを心に装備して、あなたの望みの世界、あなたの望みの人生をクリエイトする助けとすることができる。そしてもう、その物語が必要なくなった時、あらたな装備に取り替えたいとき、そのときは、これらの物語は、いつでもさっと取り外すことができる。物語とは、心のプログラムとは、いつでも自由意志によって、自由に、意識的に、取捨選択し、アップデートすべきものだからである。」から、収まりが悪いときは、自由に(自由に!)切り離して置いていいのだと思う。
 もし、ぼくと同じような感受性を持ち、この話がうまく心に入ってこなかった人の役に立てば幸いだ。


あと、「Illuminated Novel」には、小説だけでなくエッセイも載っているのだが、これがすごくお気に入りである。
読むときによって響いてくる話は変わってくるのだけど、いい。
個人的おすすめは、
光と闇 http://illuminated-novel.com/?p=181
光の道への誘い http://illuminated-novel.com/?p=283
空について。無について。(あるいは、昨日書いた小説への、ちょっとした補足) http://illuminated-novel.com/?p=266
ミッションステートメント http://illuminated-novel.com/?p=214
何かガイダンスを求む http://illuminated-novel.com/?p=27
光の結晶 http://illuminated-novel.com/?p=34


以下、個人的な余談。
ぼくは、ニヒリズムを克服するために、瞑想も少しはかじってみたが、むしろ、笠原敏雄さんなどが訳している本を読み、死後存続や生まれ変わりについて調べるということをやっていたので、滝本さんの方向性には教えられるところも大きい。
死後存続については、いまだに大きな興味と関心を持っているし、集めた知識はまったく無駄だと思わないが、滝本さんのやっているのは知識よりも実践傾向であり、それは自分に足りないところかもな、と思っているからである。


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